60億の男は何に魅せられたのか
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  “元”という言葉を付けなければならない事実は、楽しみな半分、寂しさ半分というとこだろうか。元西武ライオンズの松坂大輔投手は、 12 月 15 日付けでアメリカ メジャーリーグ ボストン レッドソックスへ移籍した。 6 年の複数年契約で年棒約 61 億円となる。
  
 World Baseball Classic(WBC) で世界の頂点にたった日本ではあるが、“宝”の流出は止まらない。むしろ、 WBC で世界一になったからであると言った方が良いのかも知れない。言うまでもなく、野球人にとって世界最高の競技レベルの舞台はアメリカにある。その中で自分がどれほどのものかを知りたいという欲求はわからなくない。しかし、松坂投手が魅せられたのはそんなものよりももっと大きな何かがあったのではないかと考えてみた。

    
 それを象徴するような出来事が、 2006 年 12 月 5 日 ストーブリーグの真只中に起きた。契約更新の際に阪神タイガースの関本健太郎選手は球団職員にあくびをされたという。その後の事実としては、球団側は「そのような事実はない」と発表し、関本選手はこれに関して自分に負があることを認め、謝罪をした後に、契約書に判子を押した。真相は藪の中だ。終身雇用制度の流れの中にいるのであろう球団職員に、プロ野球選手の寿命を決める権利があること。
  
 そもそもの仕組みに違和感を覚えなくもないが。この出来事は 2004 年に読売巨人軍のオーナーである渡辺恒雄氏に日本プロ野球選手会 会長のヤクルトスワローズ 古田敦也氏がオリックスブルーウェーブと大阪近鉄バファローズの合併問題に反対し、それに関する会談を求めたことに対して『たかが選手が』という発言をして騒動になったことに通じる。(肩書き、名称は全て当時のもの)
  
 考えてみて欲しい。スポーツをすることは、子どもの時こそ『活発な子ども』として形容されるが、それは年を重ねいくにつれて『スポーツ根性』『筋肉馬鹿』『体育会系』などという美徳とはかけ離れた形容をされていくことになる。スポーツ選手は文化功労賞というよりは、ベストジーニストやらメガネベストドレッサー賞が関の山ではないか。無論その 2 つの賞を馬鹿にするつもりはないことをご承知願いたい。この日本における、スポーツ選手の社会における文化人としてのステイタスの低さは何から生まれるのだろうか。
  
 そもそも文化とは何か? と調べてみると、“人間の生活様式の全体。人類が自らの手で築きあげてきた有形・無形の成果の総体。それぞれの民族・地域・社会に固有の文化があり、学習によって伝承されると共に、相互の交流によって発展してきた”などとなる。その定義で言えばスポーツも十分に文化と言えるであろう。つまり、スポーツ文化というのは一重に文化・文化という重ね言葉になってしまうのである。そして昨今、スポーツ文化という言葉が市民権を得つつあることは、逆説的に考えればスポーツが社会の中で未だに文化として認められていないということであるのではないかと思う。
  
 これを筆者は「スポーツの文化的価値が低い」としばしば表現する。そして筆者は僭越ながらもこれを向上させたいと思い、それこそが日本における外来から来たスポーツの文化的土着なのではないかと考えている。では、何故こうもスポーツの文化価値が低いのか。『スポーツ文化の変容』 ( 杉本厚夫、世界思想社 ) によると、人間は行為を行う際に、何をするのかと言う目標を選択する。
  
 そして何故それを選ぶのかと言う選択基準を持つ。この時の目標を価値、その選択基準を価値観と呼ぶ。その価値観としての選択基準には、その中には有効性を推し量る『有効規準』と生き方の原則に従う『原則規準』、他の物への共感を通しておこなわれる『共感規準』からなっているが、文化の価値として認めてきたのは先の二つで『共感規準』は重視されてこなかったのだ。それは前者の二つが理性であり、合理主義の社会のことを考えると当たり前のことと言えるかもしれない。『感情』という部分に価値を置くスポーツは、『理性』や『知性』とは対極に位置し、文化から疎外されていたのである。
  
 非常に学術的な話になってしまったが、つまるところ、エコノミックアニマルと言われる日本人にスポーツ及び『遊び』は対極に位置して考える余地もなかったのである。少年時代にスポーツが美徳として扱われるのは『遊び』が子どもの仕事であり、全てとは言わないまでもその大部分を占めているからである。
  
 これでは、社会を批判するだけではスポーツを溺愛しているようにも思えるかもしれない。無論それと同時に、スポーツにも原因があり、それは特有の“内向性”であったと思うのだ。アメリカ人スポーツジャーナリストのマーティーキーナート氏が自著の題名にしている『文武両道日本になし』 ( 早川書房 ) という言葉は、その端的な例である。アメリカ人には、学位を持っているスポーツマンがおり、それを「スカラーアスリート」と称する。はるか昔のことのように感じてしまうが、タレントとして一代ブームを築いた元 NFL の選手は栄養学の学位を持っていた。では、日本人はどうだろうか。スポーツか勉強か。
  
 いつのまにか、かような選択をしてきてしまったのか。
  
 また、スポーツマンは特有の“縦社会”の中で、その個人の性格までもが内向的になっていたのではないか。
  
 つまり、その世界の中で閉じこもり、他の文化と交流することを好まなかったスポーツは、社会の中での価値規準に成り得るわけがなかった故に、『お遊び』として揶揄されてきたのである。スポーツの価値が認められるのは、スポーツがスポーツ以外の世界から評価されたときである。その社会にスポーツが溶け込む為の媒介としてお金があると思うのだ。そこから、生み出される『プロフェッショナリズム』という意識も重要な一つである。
  
 ここで一つ質問をしたい。グラフィックデザイナー、測量士、学校教師に、トラック運転手。これらの一見バラバラに見える言葉のピースを括る枠は何だろうか。
  
 それは昨日南米地区代表インテルナシオナル(ブラジル)の優勝で幕を閉じた FIFA クラブ W 杯に出場していた、オセアニア地区代表のオークランドシティ FC に所属しているプレイヤーの本業である。セミプロのクラブゆえに、選手全員が本業を持っている。ニュージーランドではサッカーだけでは暮らせないのだ。だから何だと言ってもいい。勝負事と、感動の喚起という人間の行動において、ハンディキャップというのは情けであり、負い目でしかない。
  
 しかし、それでもドクターやスポンサーなどをしっかりと集める彼らの努力は、“当たり前”のことが“当たり前”にできない日本のスポーツ界に問いを投げかけるのではないか。彼らには胸を張って欲しい。クラブ W 杯はその存在自体を懐疑的な目に晒されている。それでも彼らがこの機会に日本に来てくれたことには価値がある。 ニュージーランドというラグビーの国に生まれながらもサッカーを愛する彼らの姿には、十分にスポーツが染みていることを感じられた。

  
 思えば、今年はスポーツの年だった。しかし、果たして一年間をしっかり振り返られる人間がどれほどいるだろうか。年の初めには、氷上の女王だけではなく、板の長すぎたジャンパーも、言葉通りにどこかに“ぶっとんでしまった”兄妹もいた。野球・サッカー・バスケと世界大会が開催され、ラグビーはその開催の夢が持ち越しになり、東京は 2016 年に夢を馳せた。青いハンカチと空飛ぶ馬といううたの題名のような2つも忘れてはならない。その一方で、陸上界には早過ぎる悲報が届き、各界で自らそのキャリアを閉じるものもいた。ここには書ききれないほどのスポーツで溢れていた。
  
 皆様はどのようにお過ごしになっただろうか。楽しんでいただけたであろうか。
  
 筆者には今だからこそ、戦後 60 年未だかつて日本で実現されていない『生涯スポーツ』という答えが見えてくる気がする。『する』だけがスポーツではない、『観る』でも、『読む』でもいい。まちに生きる人々の中にスポーツが溶け込む。それに関して十分な、ハードとソフトがあり、お金が回る。日本国民の多くがその価値観を享受して、生活が豊かに耕されたと思った時、 cultivate を語源に持つ Culture としてスポーツは始めて独り立ちできるのではないだろうか。と僭越ながらも思うのだ。
  
 これをもって、今年度の挨拶としたい。不束な文章ではありますが、もし宜しければ、来年もお付き合い願えればと思います。
  
                                         12月18日     篠 雄也

 
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